大切なものを失ったとき、もう一度こわすべきもの。
監督自身が演じる父親は、いささか「出すぎ」の感が否めない。だけど、彼がいかに妻と娘と息子を愛し、いかに幸せな家庭を守ろうとしているかが伝わるから好感度は高い。無駄なショットや大袈裟なショットもなく、自然なエピソードの積み重ねで、4人の関係がさらっと浮き彫りになる。子供たちにとっても、両親に鬱陶しさや反発を感じる一歩手前の時期なのだろう。これは、父親という役割の黄金期と、その終わり方を描いた映画だと思う。
良くも悪くもこの家族は理想的すぎる。夫婦仲もよく、娘と息子はとても素直で、私がイメージする普通の家族像、ティーンエイジャー像とはかけ離れている。息子の学校で起こる万引き騒動が家族を心配させるが、内容は牧歌的。だが、この事件が、息子の死という悲劇のイントロダクションとなる。
息子の死後、精神分析医の父親は「日曜の往診をやめていれば息子は生きていたかも」と後悔するが、家族で過ごす時間を増やせば悲劇を防げたのか? いや、むしろ、これまで過保護すぎたことが死の原因になったと考えたほうが自然ではないだろうか。遅かれ早かれ息子は独立していくのであり、彼は、彼自身の人間関係の中で死んだのだ。もしも私が彼の友達なら、彼の死は彼のせいだと思いたい。誰かのせいで死んだなんて思いたくない。自業自得!バカなやつ!と思っていたい。
実際、息子には家族の知らない秘密があった。息子のガールフレンドが訪ねてくるところから、この映画は動き出す。彼女は悲嘆にくれる家族に普通の空気を届けにくるのだ!といえば聞こえはいいが、要は、父親が築いてきた保守的な家族の幻想をくずしにくる役回りといっていい。息子の死によって幻想はいったんこわれるが、父親はその本当の意味に気付かない。だからもう一度、外部からこわしにくる人間が必要で、それが息子のガールフレンドなのである。つまり、この家族は2度こわれる。1度めは悲劇だが、2度めは希望だ。息子はいつまでも子供じゃない。
息子のガールフレンドは、両親にとっては規格外の「よその子」である。彼女は一緒に悲しんだりしないし、今日は家に泊まっていけという申し出に、ある種の肩透かしをくわせる。だけど、最終的には「いい子」と認識される。この家族は期せずして、息子の新しい物語とその先を垣間見ることができたのだ。
私自身も、男友達の死後、この映画によく似た理由とタイミングで彼の実家を訪ねたことがある。 東京から来た私を、ご両親は、予想よりもはるかに元気そうに迎えてくれた。息子と結婚するかもしれなかった女と思われたんだろうねと別の友人は言うが、もしそうなら、この映画と同様、私は彼らに肩透かしをくわせてしまったことになる。
そのことが、この映画のような希望につながったかどうかは全くわからないけれど、あの日、いつまでも手を振ってくれた彼のお母さんの姿が、ラストシーンに重なった。
*2001年 イタリア映画/全国で上映中
*カンヌ映画祭パルムドール賞受賞
2002-01-31