2001年 の投稿一覧

『インターネットは儲からない!』 橘川幸夫 / 日経BP社

①儲かることは悪なのか。

「僕は自分のネタや企画を他人が使うことに無頓着である」
「自分の文章は読者に『使ってもらう言葉』という意識で書いてきた」
「現場で、いろんな人と企んだり交流できた方が儲からなくても楽しいと思う」

ネタや企画や文章は、もともと権利が発生しにくく、勝手に使われがちなものだ。儲かればそれに越したことはないが、無料で使われた場合には感謝され、感謝もされない場合にはネタ元であることを自慢したいというのが人情である。 人間関係を何よりも大切に考えているという著者は、こういうことに無頓着などではなく、むしろ意識的なのだろうと思う。

「個人として生きるとは、虚飾のスターになることでも、ふてくされた世捨て人になるのでもない。表と裏のギリギリのところで緊張感のバランスをとることなのだ」という人生哲学にはぐっとくるが、このような葛藤が、異なる人間への苛立ちにつながるようだ。著者は「過去の財産に食わせてもらおうとする根性」や「新しいものを創造するエネルギーを失ったミュージシャンやベンチャー経営者」を批判し、断筆宣言をした筒井康隆に対しては、なぜ自分で出版社をやらなかったのかと嘆く。脱サラ指向の人とは仲良くなりたくないといい、「近代産業社会の最前線にいた人は、その延長戦として、次の時代に向けてのパラダイムシフトを図って欲しい」と諭すのだ。キビしい!

これからの社会で必要なのは、即座に決断できる人材のみだという。「メールなどは、届いた時に返事をするのが理想」「時間をかけて書きしたため、時間をかけて配送し、時間をかけて読みなおす種類のものとは異質」とあるが、メールに時間をかけてしまう自分としては、ギクッ!である。私は文章を書くことが仕事なので、簡単に書けるふりをすることも多いけど、実際は馬鹿みたいにじっくり考えてしまうし、送るタイミングにも悩んでしまう。携帯メールだって同じだ。

著者はまた、広告代理店のマージンビジネスを批判し、制作料の高さが表現の熱意をすり替えることを危惧する。私は主に広告業界で仕事をしているが、制作費の余裕は熱意を奪うどころか、いいスタッフを集め、妥協しない仕事ができる点からも質の高さを生んでいる。むしろ、ギャラの低さがモラルを低下させることのほうが多いと感じる。

ネット上の表現の多くは、表現者が身銭を切ったものであり、原稿料なんて誰もアテにしていないと著者はいう。有名な作家がお金のために書いた原稿よりも、普通の高校生の日記に込められた想いこそがインターネット表現の本質であると。だが、インターネットだから純粋といえるだろうか。ネット上には、売名行為や他者誹謗や邪心も満ちている。有名な作家がお金のためでなく書いたり、普通の高校生がお金のために書いたりしているから面白い。

次世代ビジネスの鍵は、参加型社会のサポートであるというのが本書の主旨。代理店や大家的ビジネスとの違いは、動機が腐っていないということなのだろう。ちなみにレビュージャパンは「オンラインビジネスを行う企業のサポートシステム」であり、「書評から本の購読に結び付いたものはアフェリエイトで報酬をもらえるシステム」だそう。文学賞の選考方法については、一次選考通過作品をすべて出版するシステムを提案しているが、大衆に選考をゆだね「売れたものが良質」という判定をくだすことは、逆に、地味で良質な文学を駆逐することになるのではないだろうか。良質な文学を発掘し、なんとか売っていきたいというサポートの意味合いが残っているのが文学賞だと思う。

(つづく)

2001-06-25

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『インターネットは儲からない!』 橘川幸夫 / 日経BP社

②使わないという選択肢。

(つづき)

インターネットは「すごく便利」だと思うが「すごくいい」と思ったことは、まだない。すごくいいものは現実の世界にある。私たちは、携帯やパソコンなしで十分に楽しく生きていけるのだ。私はインターネットのおかげで本屋に行く回数が減り、ある友達とは会わなくなった。これは便利だが豊かだろうか。NTTの知人は大量に届く社内メールを通勤電車内で閲覧せねばならず、本が全く読めなくなったという。(本書を見せたら「買う!」とメモしていたけど読む時間があるのかな?)

この本は理想論だと思う。参加型社会とそれをサポートする企業。いい面に光をあてたインターネット社会とは、確かにこのようなものかもしれない。著者はロッキングオンにライターの連絡先を公開するような仕組みをつくり、最初の単行本から自分の連絡先を入れているという。70年代から既に同じことをやっていたのだ。地位や名声やお金がモチベーションの人はころころ変わるが、著者のモチベーションは「好きだから」なのだろう。愛の人はずっと愛なのだ。

だが、現状のインターネットは、個人の無限の自由というイメージとは程遠く、私たちは画一化されている。皆、同じような姿勢で、同じようなパソコンに向かい、同じようなOSを使い、同じようなプロバイダーを通してつながっている。携帯メールだって、決められた記号を使った8文字詰めの短文。頻繁にやりとりしてるのに彼の気持ちがわからないと友人がいう。当たり前だ。私も友人からのメールをジャンクメールと間違えて消しそうになった。外を歩けば、携帯の画面をみんなが見ている。私も見ている。ジャンクメールの受信にまで課金されているそうで、気がつけばドコモに毎月2万円以上も支払っている。小学校からパソコン教育がおこなわれ、同じような顔の子がふえている。既得権ビジネスは衰退した分野もあるが、新しく誕生した分野も多く、結局のところ、私たちはガチガチに取り込まれている。そんな中から抜け出したいという苛立ちが、暴力に結びつかないと言い切れるだろうか。

著者はいう。「研ぎ澄まされた孤高の表現よりも、とりとめのない雑談が好きだ。射貫くような理念の視線よりも、のんびりと柔らかい笑顔が好きだ。顔が見えて体温を感じられる範囲での関係を大事にしていきたい。僕のイメージする『参加型社会』というのは、そうしたミニコミ的な世界がミルクレープのように重なってできる世界である」。 私はどうだろう? とりとめのない雑談は大好きだし、体温を感じられる範囲での関係を大事にしたいと強く思う。だけど「研ぎ澄まされた孤高の表現」や「射貫くような理念の視線」も雑談や笑顔以上に愛している。「参加」という言葉に、つい拒否反応を示してしまうのは、世の中が一律になってほしくないから。インターネットという道具の使い方に関しては、使わないという選択肢も含めて自由でありたい。

1954年より、映画というジャンルを超越した独自の作品を孤高に撮り続けている「世界一ポップなアンチテーゼおやじ」ジャン=リュック・ゴダールは、今年のカンヌ映画祭でこんなことを言ったそう。
「インターネット文明なんて、全く信じていないし、僕には分からない。Eメールって、なんなのかも知らない。そんなのがどうして必要なのだろう? 暴力があふれている現代、僕は自分の映画『エロージュ・ドゥ・ラムール』の中で、こういう時代はなにかを外に向かって探しにいくより、自分の内面に問いかける方が重要なのだということを訴えたかった」
(FIGARO japan 7/5号より)

*著者からメッセージをいただきました。THANK YOU!

2001-06-25

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『クレーヴの奥方』 マノエル・ド・オリヴェイラ(監督) /

不倫とは、罪悪感のこと。

成人男女の約半数が「不倫を許容している」と元旦付けの朝日新聞が発表したのは98年のこと。今は一体どうなっているんだろう? お正月の紙面をにぎわすポピュラー感と「不倫」という言葉の間には、深い深い溝があるように感じたものだが、この映画を見て、今さらのように私は膝をたたいた。クレーヴの奥方のような生き方を不倫というのだ、と。私たちの周囲に満ちあふれている不倫は、その内容がいかにヘビーであろうとも、「遊び」とか「浮気」とか「本気」とか「家庭外恋愛」とか「たまたま結婚してるだけ」とか・・・とにかくそういう軽い感じの言葉が似合う。

17世紀のフランス文学を映画化した作品だが、宮廷世界を現代の上流階級に置きかえたところが面白い。オリヴェイラ監督は92歳にして挑戦的。 単なる古典的な映画ではないのだ。

キアラ・マストロヤンニ(カトリーヌ・ドヌーヴマルチェッロ・マストロヤンニの娘)演じる「クレーヴの奥方」が恋する相手はロック・スター(ペドロ・アブルニョーザというポルトガルの現役ロック・アーティスト)。 二人が惹かれ合っているのは明らかだが、彼女は彼を避け続ける。 「人気スターならもうちょっとましなアプローチの方法があるんじゃないの?少なくともサングラスは外さなくちゃ。ちょっと笑わせてみせるとかさー」。 そんな客席の感慨をよそに、彼女の美しい表情はくずされぬまま、指一本ふれない恋愛が展開されていく。しかし、このもどかしさこそが重要で、ああ、これがまさしく不倫なのだと私は理解した。何もしていないのに罪悪感にさいなまれるほど、情熱を燃やすってこと。心の中であっさり許容、妥協してしまうような行為は、不倫とはいえないのかもしれない。

こんな思いを妻に打ち明けられたクレーヴ氏は病んでしまい、「そこら辺の男みたいに、だまされていたかった」みたいなことまで言う。それはそうだろう。行動的には彼女は潔白であり、「あなたよりも好きな人がいるけど何もしてない」と正直に告げただけなのだから、だまって浮気しちゃう女よりも、ある意味で残酷。夫は立派すぎる妻に苦悩するのだ。さらに、当のロック歌手や元恋人まで苦しめてしまうのだから、クレーヴの奥方は罪な女だ。

しかし、たとえ何人の男を犠牲にしようとも、二人の間に障害がなくなろうとも、過激なまでに自分の道を貫く彼女。傷ついたり、情熱的な愛が失われてしまうのを恐れているのである。もしも私が彼女の友達だったら、「好きになった人を追いかけないでどうすんのよ?」と肩を揺さぶっちゃうところだが、幸いなことに、彼女が唯一心を打ち明ける幼友達は、温厚な修道女。最初から火に油を注ぐような悪友はいないのである。

偶然が多く、死が多く、設定は不自然だし、ロック・スターもちょっと変。なのに、ため息が出るほど洗練された作品だ。ライブ・シーンを見て、ジョナサン・デミがトーキング・ヘッズを撮った「ストップ・メイキング・センス」を思い出した。あの映画のすごさは、ステージのすべてを撮り、それ以外を撮らなかったことにあると思うが、「クレーヴの奥方」は、主役ではない彼のステージで始まり、彼のステージで終わる。余計な説明や後日談がないところが、かっこいい。

ストーリーや時間の経過は字幕で流し、必要なシーンだけをていねいに描いていく手法。 印象的なカメラワーク、緩急のリズム感、軽快さと重厚さの絶妙なバランスが心地よく、熟成したビンテージ ポートワインのように味わった。

*1999年 ポルトガル=フランス=スペイン合作/銀座テアトルシネマで上映中

2001-06-19

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『結婚願望』 山本文緒 / 三笠書房

つまんないけど、かっこいい。

つまんなかった。一流のエンタテインメント小説を書く彼女のエッセイが、なぜ、面白くないのだろうか。

「よほどの覚悟と意志がないかぎり『結婚して家族の新メンバーを増やす』という全人類的な普通を撥ねつけることは難しいと思う」「長い人生、何をしていいやら分からないから、人はとりあえず結婚でもして子供でも生むのではないだろうか」
山本文緒の体温は、全体的に低い。離婚経験のある彼女は、離婚したあとも心のどこかで結婚願望を捨てきれずにいるが、とりあえずは生涯独身の覚悟を決めたという。独身を貫くというのは保守的な生き方ではないものの、彼女の考え方は実に堅実。 結婚を否定しているわけではなく、要するに、結婚に頼らない生き方を選んだのだ。

まじめすぎる。驚きがない。笑いがない。しかし、一方で、エッセイというのは笑わせたり驚かせたりするネタさえ盛り込まれていればいいってもんでもないだろう、と思った。この本は、確かに面白くない。なぜ彼女が離婚したのかという具体的な話すらも出てこないし。だけど、それって、いけないことなのか?

この本と対照的な日記がある。「ほぼ日刊イトイ新聞」に連載中、板倉雄一郎の「懲りないくん」だ。彼は自分が設立したインターネットベンチャーを倒産させてしまうまでの一部始終を「社長失格」という本にまとめ、失敗経験をベースに企業コンサルティングをしている。先日の日記では「複数の異性との交際」と「複数恋愛主義」の違いについて書いていた。
「複数の異性との交際」が、相手によって自分のキャラを変え、嘘もつき、他の女性との交際については語らないのに対し、「複数恋愛主義」とは、そのことをディスクローズし、それでも良いという相手と付き合うことだそう。 「他の女性とのことを言わないなんて無理」という彼は、もちろん後者であり、さまざまな女性と出会ったり遊んだりデートしたりふられたりの過程を日記に書く。すべてを公開する姿勢は仕事と同様であり、ディスクローズこそが彼のスタイルなのだ。

今は、どちらかというと、このようなディスクローズな表現が主流である。悲惨な体験を笑いに転換したり、自らの性を赤裸々に語ったりした文章ばかりが目につく感がある。 「普通の話はつまらない」という強迫観念。傷ついた自分自身さえも「ネタ」にし、そこに「ツクリ」を加え、「オチ」をつけなければいけないという予定調和の風潮。

周囲を見回すと、「タレント並みの素人」や「コワレてる人」「不思議ちゃん」たちであふれ、仕事の電話ひとつとっても、ハイテンションな暴露話やギャグの応酬。そんな日常の中では、ちょっとやそっとの「ウソみたいな話」には誰も驚かない。今や山本文緒のような体温の低い人、普通のことを普通に考える人のほうが珍しいのだ。彼女はエンタテインメント飽食時代におけるマイノリティだからこそ、個性的なエンタテインメント小説が書けるのではないだろうか。エッセイだからといって、タレント本のように個人的な離婚の経緯をおもしろおかしく語ったりする必要はないわけで、それを物足りなく感じている自分のほうこそが、メディアに毒されたつまらない人間なのかもしれない。

彼女は、結婚という壁に何度もぶつかり、思い悩み、満身創痍の身であるという。そして、「いつもはそれを小説という形で婉曲に表現している」という。彼女の仕事は小説を書くことなのだ。講演やエッセイで羽目を外して笑いをとるような作家も魅力的だが、そうでない作家のほうが、スタイルとしては職人タイプでかっこいい。山本文緒には、趣味がないそうだ。

2001-05-30

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『ベレジーナ』 ダニエル・シュミット(監督) /

負けるな!高級コールガール。

耽美的な作品という予想を軽やかに裏切るオープニングだった。 だって、いきなり主演女優らしき女性が銃殺され、シーンは一転。個人的に最もかっこいいと思う映画のひとつ、トリュフォーの「柔らかい肌」のラストを思わせる歯切れのよさだ。つかみはオッケー。

ダニエル・シュミットの近作は、舞踏家の大野一雄を密着撮影した「ダニエル・シュミットの大野一雄」(95)と坂東玉三郎が主役の「書かれた顔」(95)。 日本を舞台にした、えもいわれぬ映像の美しさに衝撃を受けた。 今回の「ベレジーナ」は、スイス人の彼が自国と正面から向き合った作品だが「スイスってこんな国なの?」という驚きがあり、心地よく混乱した。スイスに関する知識がないと、一体どこまでが本当なのかまるでわからない。もしかして冗談?と気付くまでに時間がかかった。そう、この映画は、正統派ブラック・コメディなのだ。

それでも私は、最後までマジメに見た。冗談だとしてもパロディだとしても、それらを含めた「本当のスイス」が描かれていると感じられたから。 笑えるシーンはたくさんあるが、何よりも圧倒的に感動した。スイス人が愛を込めてスイスを撮る。皮肉や批判もすべて撮る。そのシンプルな姿勢が、永世中立国の光と影を浮き彫りにしている。かなり過激な問題作だが、観光ガイド的な撮られ方ではない、リアルな息遣いの作品だからこそ、スイスの魅力を肌で感じることができたのだと思う。

ロシアからきた「スイス好きの高級コールガール」を主役にした点が秀逸。彼女の魅力は本当に素晴らしい。コールガールという職業をこれほど肯定し、魅力的に描いた作品があるだろうか。スキャンダルにまみれた政財界の要人たちが彼女のもとへ通い、つかのまの変態プレイ(レザープレイ、首締めプレイ、女装プレイ、戦争ごっこなど)を楽しむ。スイスを愛し、伝統的な民族衣装が似合う彼女を、愛国主義の元陸軍少尉は「可愛いスイス娘」と呼び、地下に張りめぐらされた国家機密基地にまで案内しちゃうのだが、このセットで繰り広げられる幻想的なシーンには泣けてしまう。

彼女は、パトロンたちを「お友達」と呼び、皆がよくしてくれて私は幸せです、と故郷に手紙を書く。スイス国籍を取得して家族を呼び寄せたいと願う彼女は、少しずつ夢に近づいていくのである。故郷では母親らしき女性が大家族の中心に立ち、彼女の手紙を読み上げるが、これはもう、笑いながら泣いちゃうっていう領域。

無垢で世間知らずなコールガールが、体目当ての男たちに騙されている―という典型的な構図ではあるのだけれど、パトロンたちが彼女にひかれ、彼女とすごす時間は嘘ではない。そう思える。政治的な世界を生きる彼らは、彼女との約束を結局は守れなかったりするが、そのことがそれほどひどい仕打ちとも思えないのは、描き方のベースに愛があるからだ。これは女性賛美の映画だろうか。それとも、監督のスイスへの思いがそう見せるのだろうか。 死を決意した彼女が軍帽をかぶり、ある命令をくだすシーンは、めちゃくちゃかっこよくて惚れた。忘れられない。

正統派コメディの本質は、愛なんだと思う。だから、ラストもぶっ飛んでいて、いい。スイスに一度も行ったこともない私を、たった1本の想像力にあふれた映画が「スイス好き」にしてくれた。

*ユーロスペースにて上映中/1999年 スイス・オーストリア・ドイツ合作

2001-05-24

amazon(チラシ)