2001年 の投稿一覧

『風花』 相米慎二(監督) /

湿度の高い、おとなのロードムービー。

日本製のロードムービーが2本、同時に公開されている。青山真治監督の「ユリイカ」と、相米慎二監督の「風花」である。

「ユリイカ」が「バスで4人が九州を走るモノクロな象徴ドラマ」だとすれば、「風花」は「レンタカーで2人が北海道を走るカラーな人間ドラマ」。しかも、このカラーは、桜、ビール、ピンサロ、川、温泉、残雪、雪解け水などのリリカルなアイテムに象徴される湿度の高いカラーであり、ピンサロ嬢(小泉今日子)の頬は、いつも艶やかに光っている。彼女のウエットな魅力を引き出しただけでも価値ある映画だ。そして、謹慎中の文部省エリート官僚(浅野忠信)の性格と酒癖の悪さといったら!

二人が演じる雪の中のシーンがいい。最低な男が、ある事実を前にして最低でなくなっていくプロセスには、誰もが釘づけになってしまうだろう。情けなさと真摯さと意外性という「自覚しにくい男の魅力3点セット」を浅野の演技はきっちり満たしているのだ。動揺しながらも、女に自分の服を着せ、抱きしめ、さすり、おぶり、ふらふらになって歩く男。実のところ、男というのは相当弱い存在で、ここまでして、ようやく女からの愛を獲得できるのかもなー、なんて思ったりした。このシーンの浅野は、ほんとうに愛しい。自分の弱さを絶望的に自覚し、プライドを脱ぎ捨てたとき、「最低な男」は「裸の男」になるのである。そして、女は、男が何と言おうと「裸の男」が好きなのだ。浅野は、雪の中の過酷な撮影の際、体力がどんどん消耗したと述懐している。「もう、本当に自分が情けなくて、情けなくて、そのまま演じたら、ああなってしまいました」。

先日、最終回を迎えた野島伸司のTVドラマ「SOS(ストロベリー・オンザ・ショートケーキ)」にも同様のシチュエーションがあり、タッキーがフカキョンに対して「裸の男」になったりしていた。ただ、ドラマの二人が青春まっさかりの高校生カップルであるのに対し、この映画の二人は、謹慎中に解雇通告される酒びたりでインポテンツのエリート官僚と、夫に先立たれ自分の子供に会うことすら許されないピンサロ嬢という、かなり絶望の色が濃いカップルなのである。したがって、これは死んだふりごっこなどではなく、死の影が本気でちらつく大人の映画だ。疲れた大人どうしが出会い、雪の中でああいうことになったら、もう結ばれるしかないだろうという有無をいわせぬ感動があった。子供の扱い方も自然で、私は、彼女の生き方に最初から最後まで素直に感情移入できてしまった。

それにしても、最近の邦画パワーはちょっとしたものだ。音楽もファッションもそうだけど、メイドインジャパンの文化レベルが着実に上がっている。若い監督もベテラン監督も、競うようにいいものを撮っている状況が、とりわけ嬉しい。

*ロードショー上映中

2001-03-23

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『ニュース★バトル(iモード新サイト)』 /

天声人語は、おやじのエッセイだ。

3月19日から、朝日新聞社と日本経済新聞社のiモード共同サイトがスタートした。朝刊の主要記事各3本と両社の人気コラムが読め、さらに朝刊記事を素材にしたニュースクイズが楽しめる。

ニュースクイズは「ニュース総合」「エンタテインメント」「トレンド・流行」「スポーツ」などの分野から毎日5問ずつ出題される。初日の「ニュース総合」では、大川功氏が会長・社長を兼任していたゲーム機メーカーの名やイスラム原理主義勢力が支配する国を選ばせ、「エンタテインメント」では、モーニング娘。を脱退した中澤裕子のソロデビュー曲「○○○の女房」を穴埋めさせていた。毎日15時半に前回の正答率、成績、ランキング、ポイント数が表示され、プレゼントや表彰もあるという。

私が注目したのは、両社が自ら「人気コラム」とアピールしてはばからない「天声人語」(朝日)と「春秋」(日経)が併載されている点。「天声人語」は大学入試問題への出題率の高さで知られるが、初日はこんな書き出しで始まる18日付けのコラムだった。「『肉なんか、ずっと食べていないよ。野菜と魚だね。その魚も用心しないと危なくてね』。パリに長年住んでいる日本人の友人夫妻の話だ。」

テーマは欧州で問題となっている口蹄疫と狂牛病。どちらも動物性飼料が感染源とみられ、「すでに何十万という家畜が、各国で殺されている」という。パリのレストランからは肉料理が減り、トリ肉や養殖の魚にも疑惑が集まり、英国、ドイツ、米国など「影響は拡大の一途をたどる」と続き、最後はこう結ばれる。「動物性飼料は、家畜を早く安く、大きくするために使われた。効率を上げようと多数の家畜を狭い畜舎に押し込め飼育する。そんな中で、微妙なバランスが一つ崩れると、伝染病が急速に広がり、パニックを引き起こす。人間の利益中心のやり方への、強烈なしっぺ返し。欧州の人びとはいま、それを実感している。」

うーん、なんだか説得力に欠けるのだ。もともと「天声人語」は友人から聞いた話を情報ソースにしている場合が多いが、今回は「魚の料理に慣れていないから、まずいの何の」という「友人の愚痴」にまで貴重な字数が割かれていた。主観と客観が曖昧なのも「天声人語」の特長だが、今回の例でいえば、最後の「実感している」がウッソー!である。欧州の人びとがしっぺ返しを実感しているなんて、どうして断言できるのだろう。せめて「実感しているにちがいない」とか「課題としてつきつけられている」などと書くべきではないだろうか。

翌日は、「春秋」が口蹄疫について書いていた。「狂牛病に続いて家畜の伝染病である口蹄(こうてい)疫の感染も広がり、欧州は大騒ぎだ」という一文から始まり、欧州各国の対策、続いて「欧州の食文化の”異変”は文明論的なテーマかもしれない」と仏文学者の鹿島茂さんの著作を引きながらフランスの肉食文化の由来に言及。最後はこう結ばれる。「肉食文化の浸透は産業革命や国際貿易進展と一体だった。域内の物流の国境が消えたはずの欧州連合(EU)諸国でいま、口蹄疫ウイルス流入を恐れる農民が国境に集まり、トラックの列に目を光らせる。市場一体化の時代に、予想もしなかった反動が生じている。」

欧州全体の現状が具体的につかめ、興味をそそられる内容だ。おやじのエッセイといった風情の「天声人語」と比べ、客観的な情報として違和感なく取り込める。これからは、新聞をとらなくても、携帯電話で「天声人語」と「春秋」を比較できちゃうのである。入試問題は「春秋」から出すべきなんじゃないのー?と思う学生がふえるかもしれない。
(「天声人語」の筆者は4/1より変わります)

2001-03-20

amazon(天声人語 2022年 7月-12月)

『プラナリア』 山本文緒 / 文芸春秋

終わらない日常。変わらない自分。

私たちの日常は、まるで山本文緒の小説みたいだ。
他人との違和感をテーマにした、5つの短編変奏曲。

1「少しくらい違和感があってもこの人はいい人で、私の憧れの人であることは変わらない。まったく違和感を感じない他人などこの世に存在するわけがないのだから」(プラナリア)
ー乳がんを切除し、今も治療中の主人公は、露悪的に自分の病気の話をし、他人を困らせてしまう。彼女の傷は、誰にも私の気持ちなんかわからないだろう、という投げやりなアイデンティティなのである。

2「私は自分がやがて立ち直って、また社会に出て働きはじめるであろうことは分かっていた。疑問を持ちつつもまた前へ前へと進んでいくのだ。それが何故だか分からないがとても悔しかったのだ」(ネイキッド)
ーこの短編の主人公は、夫と仕事を同時に失った女。なかなか立ち直ろうとせず、周囲を心配させるのだが、彼女の傷もまた、露悪的な凶器となって他人との溝を深める。

3「心から怒ってないじゃん。子供の頃はうちのママは優しいんだな、なんて思ってたけど、実はあんまり関心ないんだって大人になって分かったよ」(どこかではないここ)
ー淡々と仕事をこなす母親が、子供たちから「リストラ」されてしまう話。日常のぼんやりした違和感は、大きく爆発することがないゆえに、歪んだ形で子供たちに伝わってしまう。

4「私は恋愛感情のない男の人とだったら気楽にセックスすることができた。どこかねじ曲がってはいても自分にも性欲があることにびっくりした。そして朝丘君も実は同じような問題を抱えているのかもしれないと思うようになった」(囚われ人のジレンマ)
ーセックスレスの恋人である朝丘君と私は、心理学を媒介にして気持ちを探り合う。いちばん近い存在なのに、不信感が深まるばかりでプロポーズに応えられない私。

5「マジオさんはさー、どうして自分の思う通りにいかないと、いちいち怒るわけ?」(あいあるあした)
ー妻に捨てられた後、素性も知らないまま同棲した女に、こんなことを言われてしまう男。彼が苛立つ理由は、自分の心を誰にも開くことができず、したがって、誰かを問い詰めることもできないからだ。

いずれの短編も、他人が信じられず、素直になれない人たちを扱っている。プライドが高くて、傷ついていて、動揺していて、疲れている人たち。何が間違っているのか、どうすればいいのか、明快な答えが出ないところが説教くさくなくていい。だから、どの短編にも終わりがない印象。人の性格は簡単に変わらないし、問題は簡単に解決しないけれど、そのままでいいんじゃないかと肯定されているような穏やかな気持ちになる。

自分の受けた傷や違和感と、時間をかけてきちんと向き合っていくことは大切だ。立ち直れとか、まともに働けとか、素直になれとか、他人にとやかく言われる筋合いはないし、世の中の常識的なテンポにあわせる必要なんてないのだと思う。私たちには、ささやかなプライドを守りながら、ゆっくりと不器用に生きる自由がある。

2001-03-16

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『聖邪の行進―幻想戯曲「解放軍」より四季のある楽園』 窪塚洋介 / ぴあ

恋愛は、自分のために。

「絵のない絵本」と帯に書かれている。ブルーの文字と白い紙。それだけの色しか使われていない静かな本だ。静かだから、本屋で目立っていた。ぜんぶ立ち読みしてしまおうという誘惑にかられたが、帯にもうひと言、「どうか ゆっくりと読んでください 窪塚洋介」とあった。クボヅカくんに、そう言われちゃあ仕方ねえ。私はこの本を購入し、リゾートっぽいカフェで読むことにした。帯のコピーというのは、第三者があおるより、本人が静かに書いたほうが効果的なのかもしれない。気になる俳優が書いた本、という予備知識だけでは、おそらく買わなかっただろう。

島にすむ「僕」は、一人で海を見て、煙草を吸い、白いレンガの家で本をよみ、風呂に入り、眠り、朝食を食べ、海にもぐり、夢を見て、ビールを飲み、テレビをつけ、町まで買い物に行くために飛行場へ行き、ポーターと話をし、飛行機に乗り、女と出会い、だけど一人で食事し、本を買い、ダンスホールへ行き….

その間、絶えず考えているのは「君」のことだ。白いレンガの家を出て行ってしまった「君」のこと。どんな事情があったのかわからないけれど、とにかく「僕」はまだ、「君」に執着している。だから、魅力的な女が近づいてきても、「僕」は何も感じない。

 「人はどの瞬間にどうやって
 人を愛するのだろうか
 どんなに論理的な理由をくっつけてみても
 メッキにしかならないのだということは
 だいぶ前からわかっているつもりだ」

女に食事を誘われるが、今は一人でいるべきだと思った「僕」は断る。「君」の存在がなければ、間違いなく自分からアプローチしていたであろう女の誘いを。

 「君と出会っていなかったら
 僕は今
 何を想い何を考えているのだろう
 未来は奇跡なのだろうか
 過去は運命なのだろうか」

恋愛の苦しさって、こういう、わけのわかんなさだ。どうして出会ってしまったんだろう? 出会ってよかったのか? 一体何のために? なぜこの人でなければダメなのか?・・・・・意味を求めようとすればするほど、足元をすくわれる。結局は、相手と向き合うしかないのだ。でも、相手が目の前にいない場合は、自分の気持ちと向き合わざるを得ない。そして、何か具体的な行動を起こし、気持ちに決着をつけるしかない。

自分の気持ちと向き合うのは、こわい。考える時間が山ほどあるのは、つらい。このままじゃいけないという気持ちを一時的にごまかすには、誰かに一緒にいてもらえばいい。そうすれば楽だけど、でも、やっぱり、それじゃあ何の解決にもならないんじゃないかって思う。

「僕」のように、一人でいるべきだと思ったときは、どんないい女(男)に誘われても断ること! 一人でいるべきだと思わなければ、どうでもいいんだけどね(笑)。要するに、それは、誰かを裏切らないということではなく、自分の気持ちを裏切らないってことだ。

こういうことが、ちゃんとできている人って強い。曖昧な気持ちのまま行動して、他人を傷つけたりすることもないだろう。そのとき、どんなに苦しかったとしても、幸せになれる人だと思う。

2002-03-09

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『ぐるぐる日記』 田口ランディ / 筑摩書房

田口ランディは、生身がおいしい。

田口ランディの本の中では「ぐるぐる日記」がいちばん刺激的である。

長編小説はあまりに時流に乗っており、短編小説はあまりに巧く、エッセイや対談はあまりに教育的。要するに、できすぎているのだ。できすぎた設定や結論を読んでいると、自分ができの悪い男になったような気がしてくる。女の私でさえそう感じるのだから、本当にできの悪い男が田口ランディの本を読んだりしたら、かなり教育されちゃうことは間違いない。「オヤジに説教させたら右に出るものなしと言われたあたし」と本人も書いている。

私は享楽的に生きている女なので、完璧に構築された世界よりも、どちらかといえばもう少し不完全な世界、未完成な作品が好きである。その点「ぐるぐる日記」には、彼女の生命力とともに不安定な弱さや矛盾の片鱗が見られ、乱れた息づかいが感じられる。体調不良な日があり、馬鹿おもしれえ日があり、泣きたくなる日がある。夫を罵倒する日があり、ほめちぎる日があり、失礼な原稿依頼やメールにタンカを切る日がある。生身の田口ランディに最も近づけるのがこの本なのだ。オヤジには刺激が強すぎるかもしれないが。

「この日記は九十九%真実です」というあとがきを読み、つい1%のウソ探しをしてしまった。まず「あたしから書くことを取ったら何もない。無能なバカ女である」というのはウソだ。テレビ出演の際、初対面のテリー伊藤に「あんたおもしろいねえ!」「ゲストでしゃべりが面白い人ってめずらしいよ」と絶賛されちゃうほどタレント性のある彼女が「ただの田舎のオバサンの私」であるはずはない。「人前であがることもないし恥ずかしいと思うこともない」というし、銀座のホステスという輝かしい経歴もある。たとえ書かなくても、しゃべったり歌ったり踊ったりして人々を救う人物であるにちがいない。

「育児と家事に追われて、たまに原稿を書いている酒好きのオバサン」というのも大ウソである。ある日などは、午前中に30枚小説を書き、もう20枚書き続け、その後ビデオを1本見て、もう1本は夜中に見ようという。超人的だ。速読もできるそうだが、追われているのは「育児と家事」だけではない。しょっちゅう旅に出たり、東京に出たり、飲んだくれたり、自由と孤独を味わったりしているから忙しいのである。これって筋金入りの物書きじゃん! 安定した生活の場と夫と子供が、彼女をのたれ死にから救っているともいえるが、彼女自身はひょっとしたら家族に看取られるよりも、のたれ死にを選ぶのでは?と思わせるところが、すごくいい。

「私は、過去にも今も、有名になりたいという向上心を持った事がない」という一文には唸った。うーん、これは真実だと思う。彼女は長い間、身内およびネット上の限定的なカリスマであり続けたらしい。きっと、有名になること、金を稼ぐことが第一の目的ではなかったのだ。そのかわり、個人の責任で発信するメールマガジンに好奇心とジャーナリズム精神をたっぷりつぎこんできた。価値ある内容だ。無報酬だからといって手を抜いたりしない。好きなことを自由に書き、読者の反応によって学習し、世界を自在に広げてきた。彼女のやっていることはビジネスでも趣味でもなく、純粋な動機に基づいたプロの仕事だと思う。

1年間の日記とともに、メールマガジンを一部収録し関連づけている点が面白い。彼女が日々の生活からどんなふうにテーマを選択し、コラムを書いているのかがわかる。生身の田口ランディが感じられるだけでなく、ちゃんと勉強にもなっちゃうのだ。そういう意味では、この本も、できすぎている!

「感読 田口ランディ」に収録されました。

2001-02-28

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