つまんないけど、かっこいい。
つまんなかった。一流のエンタテインメント小説を書く彼女のエッセイが、なぜ、面白くないのだろうか。
「よほどの覚悟と意志がないかぎり『結婚して家族の新メンバーを増やす』という全人類的な普通を撥ねつけることは難しいと思う」「長い人生、何をしていいやら分からないから、人はとりあえず結婚でもして子供でも生むのではないだろうか」
山本文緒の体温は、全体的に低い。離婚経験のある彼女は、離婚したあとも心のどこかで結婚願望を捨てきれずにいるが、とりあえずは生涯独身の覚悟を決めたという。独身を貫くというのは保守的な生き方ではないものの、彼女の考え方は実に堅実。 結婚を否定しているわけではなく、要するに、結婚に頼らない生き方を選んだのだ。
まじめすぎる。驚きがない。笑いがない。しかし、一方で、エッセイというのは笑わせたり驚かせたりするネタさえ盛り込まれていればいいってもんでもないだろう、と思った。この本は、確かに面白くない。なぜ彼女が離婚したのかという具体的な話すらも出てこないし。だけど、それって、いけないことなのか?
この本と対照的な日記がある。「ほぼ日刊イトイ新聞」に連載中、板倉雄一郎の「懲りないくん」だ。彼は自分が設立したインターネットベンチャーを倒産させてしまうまでの一部始終を「社長失格」という本にまとめ、失敗経験をベースに企業コンサルティングをしている。先日の日記では「複数の異性との交際」と「複数恋愛主義」の違いについて書いていた。
「複数の異性との交際」が、相手によって自分のキャラを変え、嘘もつき、他の女性との交際については語らないのに対し、「複数恋愛主義」とは、そのことをディスクローズし、それでも良いという相手と付き合うことだそう。 「他の女性とのことを言わないなんて無理」という彼は、もちろん後者であり、さまざまな女性と出会ったり遊んだりデートしたりふられたりの過程を日記に書く。すべてを公開する姿勢は仕事と同様であり、ディスクローズこそが彼のスタイルなのだ。
今は、どちらかというと、このようなディスクローズな表現が主流である。悲惨な体験を笑いに転換したり、自らの性を赤裸々に語ったりした文章ばかりが目につく感がある。 「普通の話はつまらない」という強迫観念。傷ついた自分自身さえも「ネタ」にし、そこに「ツクリ」を加え、「オチ」をつけなければいけないという予定調和の風潮。
周囲を見回すと、「タレント並みの素人」や「コワレてる人」「不思議ちゃん」たちであふれ、仕事の電話ひとつとっても、ハイテンションな暴露話やギャグの応酬。そんな日常の中では、ちょっとやそっとの「ウソみたいな話」には誰も驚かない。今や山本文緒のような体温の低い人、普通のことを普通に考える人のほうが珍しいのだ。彼女はエンタテインメント飽食時代におけるマイノリティだからこそ、個性的なエンタテインメント小説が書けるのではないだろうか。エッセイだからといって、タレント本のように個人的な離婚の経緯をおもしろおかしく語ったりする必要はないわけで、それを物足りなく感じている自分のほうこそが、メディアに毒されたつまらない人間なのかもしれない。
彼女は、結婚という壁に何度もぶつかり、思い悩み、満身創痍の身であるという。そして、「いつもはそれを小説という形で婉曲に表現している」という。彼女の仕事は小説を書くことなのだ。講演やエッセイで羽目を外して笑いをとるような作家も魅力的だが、そうでない作家のほうが、スタイルとしては職人タイプでかっこいい。山本文緒には、趣味がないそうだ。
2001-05-30
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