『ダリアの帯』 大島弓子 / 白泉文庫

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ファンタジーに寄り添うということ。

1983年から85年にかけて発表された7つの作品。そのひとつひとつに打ちのめされるのは、「誰も言わない本当のこと」がつまっているからだと思う。

たとえば表題作の「ダリアの帯」は、他愛ない「僕」の浮気心から若い妻がこわれていく話。だけど、結論はちっとも他愛ない話なんかじゃない。通俗的なエピソードにここまで大きな答えを出し、しかも決して現実離れしていないのがすごすぎる。男ってこういうものだし、女ってそういうものだし、世の中の構造ってああいうものなんです。たぶんおそらく。

あるいは「快速帆船」は、自分が誰だかわからないまま街をさまよう「あたし」の話。すべてが明らかになったあとも、彼女はときどき自分がどこにでも帰れる子供のような気がすると、しゃらっと言い放つのである。女って、いくつになっても密かにそういうことを考えているものなんです。じつのところは。

生々しい恋愛は皆無。弱さと崇高さを併せ持つ不安定な少女の特性は、好奇心と固定観念からなる保守的な男の視線にまみれた瞬間に輝きを失ってしまうのだから・・・・・私は、それが少女マンガのセオリーだと思っていた。そして、私自身も、キミはこういう女だと類型化されたり、理想像を押しつけられたりすることを嫌っていた。目の前の私をちゃんと見てよ、と言いたくなってしまうのだ。

しかし、大島弓子は、たった16ページの掌編「サマタイム」で、男の妄執の美しさとどうしようもなさを描ききってしまった。信じたいものを信じることの喜び。妄想に執着することの本当の意味。そして「だがおれは帰らねばならない 帰りたい 帰るのだ」というつぶやきの痛み。誰もが自分のこだわりたい世界に帰る自由があり、その自由は誰にも犯すことはできないんだと思った。そういう心の理想郷をもっている人って素晴らしいじゃないかと思えた。

「おれ」のファンタジーは崇高さにつながっているか? いや、つながってなんかいない。ちょっと触れればこわれてしまう儚いおもちゃのようなものにすぎない。だけど、だからこそ、それは限りなく誠実で純粋。それがどこにつながっているかなんて「おれ」は考えない。「おれ」にできることは、ただ目の前にあるものをひたすら信じ、守っていくこと。

私の考えは少し変わった。ある種の幻想や固定観念をもつ人の目に、自分はどう映るのだろう。その人の目に映る自分を、どうして否定できるだろう。人の心に土足で踏み込んで固有のファンタジーを破壊することなんて、できるはずがないし意味がない。

私には帰る場所があるだろうか。私は誰かの帰る場所になれるだろうか。「サマタイム」を思い出すと涙がとまらない。誰の心の中にもそんな理想郷があるのだと想像できれば、自分はもっとやさしくなれるだろう。大きな視点をもてれば、他人の心に寄り添い、すべてを受け入れることができるだろう。

2001-03-29

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