2001年 の投稿一覧

『キプールの記憶』 アモス・ギタイ(監督) /

戦争という、くたくたに疲れる日常。

イスラエルを代表する映画監督、アモス・ギタイが第4次中東戦争(1973)の体験を映画化した作品。

「中東はメディアの目に晒されつづけていますが、ニュースとして流されるものはきわめて表面的なものばかり。(中略)映画には、モノを単純化して見せようとするニュース報道の土台を覆すという意味で、とても重要な役割があるんですよ」
(監督の来日インタビューより)

第4次中東戦争は、ヨム・キプール(ユダヤ人が断食する贖罪日)のイスラエルを、エジプトとシリアが奇襲攻撃することから始まった。監督は当時、負傷兵をヘリコプターで移送する部隊に配属されたものの、乗っていたヘリがシリア軍に撃墜されてしまう。奇跡的に生還した彼は、以降、自らの体験を再構築するために映画を撮り始めるのだ。

この映画は、監督の主観的な記憶を忠実に再現したものなのだろう。ダニエル・シュミットのカメラでも知られるレナート・ベルタによるリリカルな映像と爆音に身をまかせているだけで、戦場の砂ぼこりまでがリアルに感じられ、息苦しくなってくる。ヘリで負傷兵の救助を続ける彼らのストレスを肉体的に共有できるのだ。

ハリウッドの戦争映画ではよく、戦闘地域にいる兵士が、歯切れのいい口調できちんとモノをしゃべっている場面が出てきますが、現実にはそんな余裕などありません。周りはものすごい騒音ですし、誰もが命令口調になる。(中略)あっちこっちへと振り回された挙句、みんなくたくたに疲れ果てているんです。私が記憶のなかに留めている戦争とは、あらゆるものが思い通りにいかず、相次ぐ失敗に見舞われ、混沌とした状態に陥った状態です」
(同上)

ヘリの収容人数には限りがあるから、重傷者のみを運び、軽傷者と死者は現場に放置しなければならない。まるで荷物の選別のようだ。 彼らは、日に何度もさまざまな場所に降り立ち、苛酷な作業をし、再びヘリの轟音とともに飛び立つ。 見ているこちらまで、ずぶずぶと感受性不能の放心状態に陥っていきそうな疲弊のリフレイン。肉体的にも精神的にも限界状況の彼らが爆撃されるという不意打ちは、まさに「弱り目にたたり目」だが、そんな彼らをテキパキと救助する別の部隊がすぐに現れる。とてもシンプルな構造だ。 淡々と繰り返される命の助け合い。しかし、その行為は美しくすら見えない。人間が働きアリになるしかない場所、それが戦場なんだと思った。

描かれている情景は重いけれど、この映画、ヌーベルバーグのような軽妙さと日常感覚をあわせもっている。

主人公はベッドで恋人と抱き合い、鮮やかな色の絵の具を互いの体に塗りたくる。その後、白のフィアット125に相棒を乗せて戦場へ向かうのだ。なんだか楽しげである。帰り道は1人だし、腰を傷めてもいるが、ちゃんと同じクルマで同じ恋人のもとへ戻れるわけで。陽光が降り注ぐ彼女の部屋で繰り広げられるのは、またもや絵の具プレー! 戦場とは別世界のような平和でポップなシーンだけど、絵の具の色は、血液や体液や迷彩色をあらわしているようにも見えた。抱き合っているうちに色は混じりあい、混沌としたグレーになる。

戦争でいちばん大事なのは、生き残ることだと思う。生き残れば、恋人ともう一度抱き合うことができるし、ニュース報道の土台を覆すような、こんな重要な映画を残すこともできる。

*2000年 イスラエル=フランス=イタリア映画
*シャンテ・シネ(東京)で上映中/1月12日よりシネプラザ50(愛知)で上映

2001-12-27

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『ハバナへの旅』 レイナルド・アレナス(安藤哲行訳) / 現代企画室

クリスマスの正しい過ごし方。(その1)

クリスマスや年末年始という言葉には、まとわりつくような鬱陶しさがある。この時期は、愛とか家族とか自分はどこにいるべきなのかとか来年はどうすべきなのかとか、そういうことを突きつけられる決算期らしい。たとえ具体的に何も突きつけられなくても、じんわりと真綿で首をしめられるような保守的な気分が街に漂う。そんな季節はなるべく、歩いたり走ったり空を飛んだりしていたい。旅行者という無責任な肩書きを手に入れて、異国で過ごすのだ。

そう、本を読むだけでも旅には出れる。

表題作「ハバナへの旅」は、ニューヨークの大雪の描写から始まる。キューバ生まれでホモセクシュアルの主人公は、15年かけてようやく、異国の街で静かな生活を手に入れたのだ。彼はウエストサイドのぼろアパートから雪を眺め、警察に追われ続けたハバナでの恐怖と孤立の日々を回想する。そして今、自分の中にささやかな平和を見出したことを確認する。
「その平和は、ひとつの言葉のなかにおさまった。誰もがはねつけようとするが、誰をも救うその素晴らしいたったひとつの言葉、それは孤独。自分以外の誰にも屈伏しない、自分以外の者のためには生きようとしない、そしてなによりも、孤独を追い払わないようにするというよりは、むしろ逆に、孤独を求め、追いかけ、宝物のように守ること。なぜなら、肝腎なのは愛情を断つことではなく、愛情を棄てたものと見なし、愛する可能性のないことを理解し、そして、そんなふうに考えていることを楽しむことなのだから」

熱帯の作家による雪の描写はとても美しい。しかし彼は、かつて偽りの生活のために結婚した妻からの、うんざりするような手紙をきっかけに、クリスマスにハバナへ帰ることを決めてしまう。帰るまいという強固な決意を揺るがす、言い訳づくりのリアリティが秀逸。人は、何かを確かめるために、せっかく手に入れた孤独の喜びをあっさりと放り出し、懐古的な衝動に身をゆだねてしまうのだ。何年も我慢をかさねた分だけ、欲望(彼の場合は若い男への肉体的欲望ですね)に突き動かされる瞬間の開放感は、いっそう生彩を放つ。

愛情を注ぐことのできない妻と息子が待つ、あたたかく懐かしいハバナへ・・・
これは、年末年始につきものの帰省の物語だ。

「ハバナへの旅」の主人公は、実のところキューバにもニューヨークにも絶望している。ヴィム・ヴェンダースの映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」(1999)が、キューバ音楽とともにニューヨークを礼讃しているのとは対照的だ。 アレナスは1943年にキューバに生まれ、反政府的な言動が原因で繰り返し問題を起こし、1980年に小舟に乗ってキューバを脱出。ニューヨークに居を構えたが、エイズに冒され、1990年12月7日、ニューヨークの自宅で自殺した。

本書には、「ハバナへの旅」(1987)のほか、編物(ファッション)をモチーフにした「エバ、怒って」(1971)と、モナリザ(アート)をモチーフにした「モナ」(1986)の2編が収録されている。ユニークなアイディアを緻密に寓話化した3楽章だ。

3つの作品に共通しているもの。それは、母親のように主人公を思い続け、陰で支える女の存在。どこにも居場所がない「放浪するホモセクシュアル」としてのアレナスにとって、女とは、母とは、決して旅に出ることのない「鬱陶しいけれど感謝すべき大地のような存在」なのかもしれない。

2001-12-22

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『悪の恋愛術』 福田和也 / 講談社現代新書

清原くんから妻へのプレゼント。

「物事を単純に見るということは、同時に自分をも単純にしてしまうこと」と著者はいう。出会い系サイトで出会う男女にとって、互いは性と好奇心の対象でしかない。

「他者を徹底して性欲の対象として見るということは、自分もまた性欲の対象としてのみ存在しているということです。ドルバック云うところの『粘膜』でしかない、と自分を既定してしまうことにほかなりません。『粘膜』として生きることは、愉しいのでしょうか」

粘膜として生きるのも悪くないぜという極右派もいそうだが、結局のところ私たちは人間だ。不倫や浮気の類語として「割り切り」という言葉があるようだが、本来は割り切れない関係だからこそ逆説的な言葉が使われるのだろう。

「恋愛は厄介で愉しい贅沢品」と考える著者は、ワインを飲む際、「話し好きな人にはこのワイン、気難しい人はこれというふうに、だいたいのチャートをつくっていて、そのチャートをつくるのがまた愉しい」という。「ただし、どんなワインにも反応を示さない相手は、願い下げです」だってさ。これ、ちょっと神経質すぎない? 馬鹿のひとつ覚えみたいにドン・ペリを開ける粘膜男のほうが好感もてるかも。というのは冗談だが、ワイン通の男というのは、概して階級にナーバスで、うんちくを傾ける割にケチだったりする場合も多いので要注意である。「こういうワインを勧める男はこんなヤツ」という逆チャートをつくっておくと楽しいかも。

著者はなぜ階級にナーバスなのか? 自身の過去の告白は切なくて、女性なら「わかった。これからは自慢話でも何でも聞いてあげる」って思うんじゃないだろうか。慶応の付属に通いはじめ、遊び人たちとの階級差を意識せざるを得なかった高校時代。最初につきあった彼女が下町に住んでいることで、仲間に負い目を感じ、自分も下町の人間であることすら告白できず、自ら彼女との関係を断ち切ってしまったという。

その後、著者が結婚した女性は、生粋の良家のお嬢様。彼女は彼の書くものに興味をもったそうだが、失業中だった彼との結婚は、父親に大反対されたという。「現在でも認められているとは云いがたい」そうだが、著者はひとまず、知性(悪の恋愛術!)で階級を克服したのである。

ところで、悪の恋愛術のポイントは、相手に変化をもたらす「贈与」であり、ここが策略の見せどころなのだが、私は一昨日、「清原和博がFAを語る」という番組で、策略もお金もいらない贈与の例を見てしまった。

清原は、妻の誕生日に「ホームランを打ってやる」と出かけたが2打席とも三振。皮肉のひとつも言われるかと落ち込んでいたら、さよならのチャンスがまわってきて、完璧なホームランを決める。彼はそのとき、「自分の誕生日に夫にホームランを打たせてしまう彼女の運の強さを感じた」というのだ。彼女の手柄にしてしまう気前のよさ!「半分は僕の実力で、半分は彼女のおかげですね」などとケチなことは言わないのである。野球選手の妻として何点?という質問に対しては「500点」とさらっと言ってのけた。ケチな男は、こういうところで90点とか言って自分が優位に立とうとしたりするものだが、清原は違う。こんなプレゼントをもらった妻は、今後もさらなる強運を彼にもたらすだろう。

別のスポーツ選手が、以前、妻の料理をけなしていたことを思い出した。彼女はマスコミに激しくバッシングされている存在だったから、「お前が率先して彼女を悪く言ってどうする?」と私は耳を疑った。その後、芳しくない成績のまま彼が引退することになったのは、身内の力を借りることができなかったせいなのかも、と哀しくなった。

2001-12-16

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『ノー・フューチャー(A SEX PISTOLS FILM)』 ジュリアン・テンプル(監督) /

短命を恐れないかっこよさ。

ロック史上もっともスキャンダラスで悪名高いバンド、セックス・ピストルズの未公開映像がたっぷり楽しめる映画。当時の英国のニュースフィルムやコマーシャル、コメディなどがコラージュされ、70年代という時代をシャワーのように浴び、興奮することができる。

「アナーキー ・イン・ザ・UK」のイントロが流れ、ジョニー・ロットン(ジョン・ライドン)や死の直前のシド・ヴィシャスの表情を見るだけで鳥肌がたつ。大人を裏切る若者の胸のすくような過激さは、時代を経ても色褪せない。

にせものだけが生きのびる、というメッセージを残し、セックス・ピストルズはわずか26か月で解散。公式発表アルバムはたった1枚。これほど短命なバンドが、パンク以降のあらゆるカルチャーシーンに影響を与えたのだ。生きのびようとあがくことの醜悪さから、私たちは逃れることができるのだろうか?

「俺たちは俺たちでいたってこと。それが後から革命だとか言われたんだ」とジョニー・ロットンは語る。自分に忠実であることがすべてと言い切れる思想は、健全で鋭い。彼らの行動やファッションをまねすることは、パンクの真の意味から遠ざかることにしかならないだろう。

次のムーブメントは、いつどこで起きるのか? 不況で鬱屈する労働者階級からセックス・ピストルズが生まれたように、不自由であることに敏感なエリアから予想外の形で炸裂するはずだ。そう考えると、不安や不満がいつまでもなくならない世の中のしくみにも、希望がもてる。

*1999年イギリス映画/シネセゾン渋谷で上映中

2000-11-25

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『カンダハール』 モフセン・マフマルバフ(監督) /

答えのない真実。

イランの映画監督モフセン・マフマルバフの最新作「カンダハール」は、「東京フィルメックス」の特別招待作品として11月19日に上映された。

5月のカンヌ国際映画祭では、カトリックとプロテスタントの映画批評家が選出するエキュメニック賞(全キリスト協会賞)を受賞。だが、今回の上映会場が取材陣やカメラでごった返すほど熱気に包まれた理由は、たまたま米国で同時多発テロ事件が起き、アフガニスタンへの報復攻撃が開始されて以来、この地名が流行語のように私たちの口から発せられるようになったからだろう。

ここ数日、アフガニスタンは大きく動いている。タリバーンが撤退したカブールでは5年ぶりにテレビ放送や映画上映が再開され、カンダハルの明け渡しも時間の問題という。そんな激動のさなか、一人の監督の目を通した「米国の空爆以前のアフガニスタン」はどんな意味をもつのか。

主役は、カナダに亡命したアフガン人女性ナファス。彼女は、カンダハルに残した妹から自殺をほのめかす手紙を受け取ったことから、新月(自殺予告の日)までに何とかして故郷に帰ろうとイランからアフガニスタンに入る。ナファス役を演じた女性ジャーナリストの体験にもとづく物語だ。彼女は当初、自分の足跡のドキュメンタリー化を希望したが、危険なため実現せず、フィクションとしてこの映画が完成した。確かに、かなり作り込んだ映像である印象は強い。むきだしの義足がパラシュートで次々と落ちてくる光景や、女たちがマニキュアを塗りあい、カラフルなブルカの下でコンパクトを開いて化粧する姿などは、絵になりすぎている!

それでもこの映画が、ある真実を確実に伝えていると断言できる理由は、人間の描き方が一面的でないからだ。

信用できるかできないかを瞬時に見分ける癖のついた子供の目を「可愛い」と片づけることなどできないし、危険を回避するため、金を得るため、当たり前のようにつかれる嘘を「悪いこと」とはとても思えない。切実な思いでイランからアフガニスタンへの旅を続けるナファスもまた、信用されたい相手にはブルカから堂々と顔を出し、身を守るためのぎりぎりの嘘をつきながら、正解のない日々を生きのびる。

地雷のよけかたを親身に教える女学校や、戦闘知識や身体を激しくゆすりながらコーランを音読する作法を叩き込む神学校のシーンはリアル。1か月待たされるのが普通という義足センターでは、地雷の被害者たちが足の先端を見せながら「痛くて夜も眠れない」「このままでは腐ってしまう」と訴える。目に痛い映像の連続だ。

ただし、痛いだけではない。妻のために持ち帰る義足に新婚旅行の時のサンダルを履かせ、サイズと美観を点検する男の姿は微笑ましいし、金のためにナファスのガイド役を引き受ける少年は、信用できない子供として描かれながらも、彼女にとって忘れがたい存在であったことが強調される。人を疑うことと信じること。悲しみと喜び。ひとつの状況の中に相反する概念が共存しうるのだと、この映画は言っている。

映画は、ナファスがカンダハルに到着する前に終わる。緊張感の中で坦々と旅は続くのだ。
この物語は現実につながっており、現実にも決して終わりがないことを思い知らされる。

*2001年 イラン=フランス映画
*イタリア、フランス、カナダで公開。イギリスでも公開決定。日本では2002年、シネカノンで公開予定。
*ブッシュ大統領の要望により英語字幕をつけてホワイトハウスに空輸。

2001-11-22

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