男ってこんなこと考えてるの?
妻子もちの男のリアルな1日。文字どおり静かな心の揺れ動きが細密に描かれている。「男ってこんなこと考えてるんだ」とのぞき見のような感覚で読み進んでしまう。静かだけど切実な小説。静かだからこそ、もっとも大きな心の問題をつきつけられる。愛について。女について。生活について。希望について。
「こんな男いやだなー」とまずは思う。浮気、弱気といった「女に嫌われがちな要素」がたっぷりと盛り込まれているからだ。できれば、こんな心の中は見たくない。だけど、この小説の作者は、自分とはまったく関係ない男だから、安心してつい、こっそり読んでしまう。
この男の気持ちが、とてもよくわかるのも事実。要するに「女々しい男」なのだから、女こそ、この小説の最大の理解者ということもできる。理解がはじまると、次に共感が生まれ、やがてこの男に対する「いとしさ」さえ芽生えてくるのだから驚きだ。
どこか大人になりきれずに、いつまでも女々しく揺れ動いているような男というのは、女に嫌われるどころか、むしろ母性本能を刺激され、「しょうがないわねー」と許されてしまう、最も典型的なタイプなのかもしれない。
ところで、男性はこの小説をどう読むのだろう?
2000-11-19
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疑似恋愛のパワー。
マラソンの高橋尚子をシドニーオリンピックで金メダルに導いた名監督の本。報道ではわからなかった彼の強い信念が伝わってくる。小出監督は、単なる飲んだくれのオヤジではなかったのだ!
女子チームを率いる仕事には相当な気配りが必要で、中でも「えこひいき」は厳禁だという。だが、小出監督は、選手がふてくされたときにも、タイミングを見定めて絶妙な言葉をかけ、彼女の顔をぱっと輝かすことができる。ふだんから「必ず口に出して」「本心から」「くりかえし」ほめることを忘れないし、試合に同行できないときは、深夜に国際電話をかけ、直前まで親身に指導する。しかも、こういうことを一人ひとりの選手のタイプや生理に合わせてやっているというのだから、驚異的なマメさである。
年の離れた恋人同士にも見える小出監督と高橋尚子だが、監督のアプローチは、まさに疑似恋愛モードだ。「こちらが誠意を示して一所懸命になれば、必ず相手も一所懸命になってくれる」「こっちが手を抜くと必ず相手も手を抜く」「可愛がってあげれば、必ず心が通じる」「彼女がどういう言葉を掛けたら喜んでくれ、何をいったら傷つくのかということを、あらかじめ把握しておくことが大切」- これらはコミュニケーション論であり恋愛論でもある。男性が読めば、意中の女性の落とし方がわかるだろう。
小出監督に巡り合えない普通の女たちは、どうやって自分の夢を実現すればいいのか? 素直であること。柔軟であること。冒険すること。楽しむこと。不安を感じなくなるまで練習すること。 要は「保守的な思い込みの呪縛から逃れること」に尽きると思う。恋愛をしていれば誰もが自然にできてしまうであろう、ごくシンプルなことだ。
2000-11-05
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リアルは「問題作」なのか?
こういうのを待っていた!と素直に思えた映画。初めて村上龍の小説を読んだときのような印象。きれいごとではない、フランスの現実というべき風景が、50男のモノローグを通して描かれる。目をそむけたくなる映像が続出し、人間の心にひそむネガティブな感情が赤裸々に暴かれる。見ていて気分が悪くならないのは、それらが圧倒的にリアルだから。規制概念の枠の中でつくりこんだ「適度に上品な映画」のほうが、よっぽど下品でおぞましいと思う。
モノローグのセリフは普遍性があってすばらしい。だれもがホームレス寸前の前科者の心に同化し、憎悪の高まりやパニック寸前の感覚を共有することができるだろう。部分的にはゴダールの映画のようだが、ストーリーは実に明解で、シンプルで洗練されたエンターテインメントになっている。等身大のフランス、そして人間のリアルをストレートに見せたこの作品が、なぜ「過激」の烙印を押されてしまうのか。つまり、それは、近年まれにみる「正攻法で傑出した映画」ってことの証拠だ。
人の内面には、生まれながらにモラルが備わっているわけではない。もしかすると、私たちは、世の中の規範に心の中まで犯されているんじゃないだろうか? 他人の評価ではなく、自分の本能的な価値観を道しるべに幸せをつかみたい。そんなピュアな気持ちになる。
*1998年フランス映画/渋谷シネマライズで上映中
2000-11-02
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流通経路をはずれた小説。
イラスト集であり、小説集であり、10曲入りのCDとポスターまでついている。著者はカリスマ的ミューシャン(今年解散したブランキー ジェット シティのギター&ボーカル)であるから「ぜいたくな装丁のCD(5,800)」と考えるのが自然かもしれない。しかし、CDをつけるアイディアはあとから決まった、と本人がラジオ番組で語っていた。この商品の本質は、絵なのか、文字なのか、音なのか。そして一体どこで買えるのか?
一般に、型破りで面白い形態の本は、部数の少ない(ことが稀少価値にもなる)アート本というジャンルに多くみられるが、デザインが優先されるあまり、日本語の文章が軽視されることが少なくない。
しかし「SHERBET STREET」はちがう。浅井健一は、もともと日本語へのこだわりを強く感じさせるアーティストなのだから。さっそくCDを聴きながら絵を眺め、小説を読んでみると、多才な彼の作品世界が、ゴダールの映画のように立体的に迫ってくることがわかる。とりわけ小説の部分は異色で、紙も印刷も、そこだけ懐かしい匂いがする。水色の文字の中で、彼の感性は、編集者のチェックなど受けず、生々しい無垢な形のまま自由な翼を広げているように感じられる。
CDをエンドレスでかけながら、いつまでも読んでいたい絵本。終わってほしくない物語。ネット上のBOOKストアでは見つからなかったが、ネット上のCD ストアで買えた。
2000-10-29
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スキャンダルを超える執念。
読むつもりはなかった。著者が赤ん坊を抱いている写真が、本の表紙や広告に大々的に使われていたからだ。彼女が、そしてこの本がふりまくスキャンダラスなイメージは、読もうという私の意欲を萎えさせた。しかし、一方では、このような特異なイメージ戦略こそが、部数の伸びに貢献しているのだろう。
ついに読み始めた理由は、朝日新聞に掲載された橋爪大三郎氏の批評が忘れられなかったからだ。橋爪氏はこう書いていた。 「現実の人間関係をそのまま<物語>として公表していいのかという問題がある。赤ん坊の父親は匿名だが、写真週刊誌の餌食(えじき)になりそうだ。彼は自業自得でも妻は大きな痛手を被ろう。ほかにも傷つく人びとが大勢いるはずだ。これ以外になかった柳さんの必然は必然なのだが、心の痛むことである。」(朝日新聞2000/7/30「ベストセラー快読」より)
実際に、この小説のせいで傷ついた人がいるのだろうか? それは、登場した(orさせられたorさせてもらった)当人たちの判断に委ねるしかない。ただ、ここに書かれた内容は、柳美里や登場人物に関する予備知識がまったくない、まっさらな読者にさえ「すべて事実なんだ」と信じさせる重みをもっている。
もっとも傷つくのは著者自身かもしれない。それでも彼女は書く。何を言われようが書く。そのことに打ちのめされ、勇気づけられた。親しい人と闘うことや孤独になることを、彼女は恐れていないのだ。この本は、表面的にはあざとさを感じるが、中身には、それだけでは片付けられない非凡な執念を感じた。
「子供を産んでも保守的にならない柳美里」は、今後どのように子育てをし、その子はどう育つのか?
2000-10-26
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